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歌詞は秋元康さんでした。
歌唱メンバーは、柿崎芽実・佐々木美玲の二人です。
後世の自分のために、タイムカプセルに納めたモノは思い出と言えます。
掘り起こしたそれに、楽しさとか切なさというような甘酸っぱい記憶が想起されるものでした。
「三輪車に乗りたい」においても、何とも割り切れない心持ちが思い起こされるような感覚に陥ります。
三輪車が、タイムカプセルの役割を果たしていると思いました。
歌詞考察・・・違和感の正体とは何か?
三輪車は追憶に浸るきっかけである
初めは、タイトルに違和感を感じました。そもそも、三輪車に乗りたがる主人公を想像すると、物心がつくかつかないかといった年齢になってしまいます。そうなると、あまりにも幼すぎると言えました。だから、主人公は、追憶に浸っていて回想シーンに三輪車が登場していると解釈できます。
主人公は、三輪車にまつわる記憶に甘酸っぱいものを感じているのでしょう。
歌詞を見ると、次のようになっていますから甘酸っぱい記憶に浸っていることで間違いないと思いました。
思い出に乗りたい 小さすぎたとしても・・・君はどこなの? あれからずっと会っていないし あの頃のように アパート引っ越したと聞いた 会いたいけれど・・・三輪車に乗れない
この歌詞で、三輪車に乗っていた頃に「君」と知り合ったことがわかります。そして、「君」と共に成長して、好意も育んでいたように思えました。
いつ離れ離れになったのかわかりませんが、遠回しに「君」に会うことができないことを表現しているのでした。
思い出に乗ることも、三輪車に乗ることも今となっては叶わない願望ということです。
そして、雨ざらしの三輪車が寂しそうで誰かにとって大事なモノだったのに・・・という歌詞から誰のものかわからない三輪車によって「僕」は追憶に浸ってしまうのでした。
ここで、大きな声で 何も変わっていないんだ 叫んでるのに そんなの嘘だとバレているよね、の歌詞にある嘘とは何なのか分かります。
昔と比べて、何も変わっていないなら、三輪車に乗れるほどに幼い「僕」でなければなりません。
しかし、「僕」は三輪車に乗るには、大きいのでした。三輪車に乗れないのですから、何も変わっていないというのは嘘ということになります。
終わりに・・・いきものがかり「かげぼうし」との共通点
「三輪車に乗りたい」の「僕」が、追憶に浸るきっかけは三輪車だけではありませんでした。例えば、次の歌詞では三輪車以外のモノがきっかけで「僕」は回想しています。
街の灯りがいつのまにか点いている もうこんな時間なのかなんて空の気配で気づいて 影法師の長さがなんだか懐かしかった
影法師とあったので、いきものがかりの「かげぼうし」が想起されます。
いきものがかりの「かげぼうし」は、「わたし」が自分の影法師を眺めていました。「あなた」と別れた寂しさを、薄れゆく「わたし」の影法師に重ねているのです。
「あなた」がいない喪失感を、薄れゆく影法師で表現していると思いました。
なので、余計に「三輪車に乗りたい」の「僕」に感情移入してしまいます。 終わり